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ラス・カサスへの道/上野清士 [本]

兄弟たちよ、あなた方は同じ人間として生まれてきたのです。あなた方は自分の兄弟の農夫を殺しているのです。「なんじ人を殺すなかれ」という神の掟は、殺せという人間の命令に優先します。いかなる兵士も、神の掟に背く命令に従う義務はありません。今こそ、あなた方の良心を回復し、罪深い命令に従わず、初めて良心に従う時です。…私はあなた方にお願いいたします。懇願いたします。神の名において命じます。弾圧を止めなさい。(1980年3月22日 オスカル・ロメロ司教 p278)

「私はひとつの小さな灯火にすぎない。それでも、私は路傍の小石を照らすことができる。その小さな火は、道を歩むときに必要なのだ」 (サムエル・ルイス司教 p359)

ラス・カサスと、今の中南米を学び、民衆が、またアメリカをはじめとする国家が何を為してきた500年かを教えられました。
「いったん事あれば、まずフランス大使館に逃げ込め。それが無理なら北欧の大使館へ」北欧の次が西欧諸国の大使館で、どうしても駄目なら米国か日本大使館となる。かぎられた旅費で、なにもかも自己判断で地を這う旅をつづけていた日本人バックパッカーは、感覚的に日本大使館がいかにあてにならないかを熟知していた。大使館の守るべき日本人とは、「日の丸」を背負って派遣されてきた駐在員、青年海外協力隊員、日本人学校の教師・職員、およびその家族たちであって、「危険情報」を無視して入国してくるバックパッカー「勝手組」には冷淡だった。(p270)

「オスカル・ロメロ人権賞」…サラエボで活動する新聞社「オスロボジェニェ(自由)」紙が選ばれた。同紙は、銃撃戦が展開されるなか、社屋が砲弾を受けて炎上しても編集作業をつづけ、一日も休まず新聞を発行したといわれる。内戦下、あくまで中立を護持しつつ内戦の実相を伝えようと努力し、民族と宗教がもたらす不寛容による精神の荒廃を指弾してやまず、紛争の早期終結を求めて命がけで闘った。殉職者も多かった。内戦終結時には、約40人が硝煙の消えたサラエボの「平和」を見ることができなかった。(p276)

カトリックの「布教」が異端の徹底的な排除を意味するものであるなら、ラス・カサスのそれは、とうてい「布教」と呼べるようなものではなかったと私は思う。当時、ラス・カサスが最優先したことは、「布教」ではなく、先住民の生命そのものであった。人命が損なわれるという危機にあるとき、「布教」のドズマは後退してもいっこうに差しつかえない、と認識しているラス・カサスの姿をグアテマラに見いだしたい。(p312)

18世紀後半、英国は…セント・ビンセント島を狙った。…しかし、ガリナグ族は英国の言いなりにはならなかった。…戦いは長期化し、30有余年にわたったといわれる。
戦いの長期化はガリナグ族を疲弊させ…敗退する。ガリナグ族は囚われ人となったが、誇りは失わなかった。彼らは英国人のもとで働くことを拒否した。反抗心に満ちたガリナグの処遇に窮した英国は、、彼らを船に乗せ、…ロアタン島に遺棄した。勝手に暮らせ、生き抜けるものなら生きてみろ、放置されたのだ。
そうして、ガリナグ族約2000任はロアタン島で新たな生活圏を拓いた。英国軍との戦いをはじめた当時、ガリナグ族は5000人を数えたというから、戦いがいかに熾烈なものであったかがうかがえる。
...もうひとつ、彼らが胸を張って語るのは、「一度も奴隷労働に服したことはない」というプライドだ。
...今日、ガリフナ族は、プンタのリズムを継承して、国境をまたいで同胞たちとの連帯を強めている。彼らは、ホンジュラスやグアテマラ中央政府の意向から解放された営みを送っているようにさえ思う。
ベリーズのガリフナ族が沿岸沿いに南下して、グアテマラのガリフナ族の町リビングストンのフィエスタに参加した日を取材した。そのとき、リビングストンの埠頭に着いたベリーズ国籍のガリフナに、パスポートの提示を求める税関職員はいなかった。ベリーズのガリフナたちは、まるで遠い親戚を久しぶりに訪ねてきた、という感じで上陸し、埠頭からフィエスタ会場まで踊り太鼓を叩きながら行進していった。(p332-334)

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